【書評】猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

盤下の棋士、と呼ばれた小さな小さなリトル・アリョーヒン。
彼がチェスという果てのない深淵にどう触れていったのか。

作者の文章は情報量が多い。
わずかな描写でも想像する幅が大きいので、
内容次第で重くなりがちだ。
また、我々が普段生活しているこの現実での
「お約束」が通用しない場面も多々出てくる所が特徴とも言える。
様々な行動に対して、登場人物が疑問を挟まない。
ありのまま、事象として受け入れるのだ。

読み始めた当初はそのような違和感が拭えなかったが、
主人公が独身寮の裏にある回送バスに足を踏み入れる辺りから、
物語の質がグッと濃くなり、引き込まれていった。
彼はそこで、バスに住む大男、
そしてチェス盤の下の空間を住処とする猫と遭遇する。
ゆくゆくはマスターと呼ぶ事になるその大男と、
ポーンと名付けられた猫を胸に抱き、
チェスの深海へ潜って行く事になるのだ。

チェスのルールが分からない読者でも、
一緒にプレイしているかのような気持ちにさせられる。
また、前述の情報量の中で、次の一手を共に夢想出来る。

「さようなら、ミイラ」
そう呟いて指した1手。
自らの元から去ってしまった彼女に対してのその言葉に、
せつなさと、鳥肌が立つ。

慌てるな、坊や
全ては、その一言に集約される。